蜃気楼

 今では観光客とサーファーで溢れるメキシコはオワカ州、ジポリテのビーチ。 しかし80年代初めのプエルト・アンヘルはまだ小さな田舎町で数キロ続くジポリテのビーチにも人影はまったくなかった。

 遮るもの何もない太平洋の向こう、遥か彼方からメキシコに押し寄せる大波の直撃を受け止めるこの海岸線。 岩場では轟音を響かせた巨大な水柱が空高く持ち上がり、砂浜に立てば波頭を崩しながら押し寄せる荘厳な青い城壁が私自身の無力さを白日のもとに晒す。 それは漂着した無人島で感じる絶望に近い孤独なのかもしれない・・・そしてそれは、ジポリテのビーチの美しさ故に。

 そんなジポリテのビーチとプエルト・アンヘルを結ぶジャングルの中にオールドヒッピー達が休息を求める旅行者のために開いたキャンプサイトがあった。 海岸線に突き出した絶壁の上、そこには樹木に囲まれた大きな茅葺のレセプションと食堂、その周りに点在するのは簡素なハット。 そして広いサイトの奥、遠く海を見渡す崖の上、小さな入江を見下ろす小道の途中、雑木林の所々にはベンチにハンモック、東家までもが散らばる。 そこは自然の中に暮らすヒッピーコミューンの心地よさを思わせる休息の場所だった。

 「トコマ、スペシャルが手に入ったけど試してみるか?」

 朝食を求めて食堂に入った俺に仲の良いスタッフの一人が声をかけてきた。

 「スペシャル?」

 「ハワイアンブルー、知ってるか?」

 「いや、始めて聞くけど」

 「試してみる価値はあるぜ」

 「OK、俺のケミカルマッシュルームと交換しよう、ジェフ」

 ハワイアンブルー、ジェフがスペシャルと言うからには期待ができる。 レセプションに預けてある貴重品からジェフと交換するアシッドを取り出すついでに一錠飲み込む。 最高のロケーション、そしてスペシャルなブースター・・・今日は特別な一日になりそうだ。

 朝の色合いを残す空の下、私はサイトの奥へと進み木陰のベンチで一人静かに煙を吐き出す。

 私を囲む木々が騒つき始めた・・・それは、一枚一枚の木の葉の微かな息遣いが重なり合った命の囁き。 そしてその騒めきをハワイアンブルーが加速する。

 煌めきながら降り注ぐ硝子のカケラ・・・木漏れ日を受け止め、木々の間を縫うように流れる風にその輝きを溶かし込む・・・風はその透明感をさらに増し、水晶の硬度を得る・・・微かな息苦しさ、そして静寂・・・風のコクーンが私を閉じ込めている・・・軽く手を触れる・・・コクーンは弾け、その破片は青い空に舞う硝子の結晶・・・そして流れる風は私を青い空の下へと誘う・・・私は、歩き始める・・・広い空の方へと・・・そこは遠く海を見晴らす崖の上・・・そこには青い空、そして青い海・・・それは青く染められた風が運ぶ時間の流れ・・・それは深淵、青さに侵食された時間の軌跡・・・

 浮遊感・・・青い風に溶かされるような・・・それは、時間の息遣いに触れるような・・・それは青い風の流れに揺れる陽炎・・・その向こうに見える水平線は青く泡立つ・・・蜃気楼・・・あれは、蜃気楼・・・私の後ろで誰かが、そう囁く・・・振り返る・・・ジャングルが燃え上がっている・・・囁きは、緑の炎のうねり・・・それは騒つき・・・あれは、蜃気楼・・・あれは蜃気楼・・・近くに行ってみろ、あれは蜃気楼・・・あれは蜃気楼・・・ジャングルが騒つく、私に見に行けと・・・燃え上がる緑の炎が私を包み込む・・・ゆっくりと、それは静かに・・・私の足が地面を離れる・・・青い風に漂うように・・・それはタイトロープを渡るように、私の体は空へと・・・あたかもタイトロープを楽しむかのように、私の体はバランスを取る・・・緊張感・・・それは、心地良さ・・・私は青く泡立つ水平線へと向かう・・・足元、遥か遠くには崖に砕ける大波、そして青い煌めきが何処までも続く海の大きさ・・・私は、青く泡立つ水平線に目を凝らす・・・それは揺らぎ・・・それは、海と空との隙間で揺らぐ時間の流れ・・・それは海の青さと空の青さの質量の違いで起こる、時間の揺らぎ・・・そしてそれは、蜃気楼・・・

 

 

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