”桃源郷”
なんて素晴らしい響きなんだ。
それはリビヤ砂漠の端、ダルフィール地方に忽然と現れるスーダンの最高峰ジャベルマーラにあるという。 紀元前から存在していたともいわれる紅海の港町スアキン、その珊瑚で作られた廃墟の街で四十度越えの暑さに悶える俺には天国からの歌声にしか聞こえなかった。 その美しい歌声に導かれるままに珊瑚の廃墟から千数百キロ離れたジャベルマーラへと、俺は桃源郷へと向かうことにした。
ヌビア砂漠とリビヤ砂漠を越え、ジャベルマーラの入口となるエルファシャにたどり着いたがこれまで以上に熱い。 ここはまだ砂漠の町、昼間は五十度に近いだろう。 この先に目指す桃源郷が本当にあるのだろうか、ホテルのオヤジに聞いてみた。
オヤジは無邪気に、あるから行ってみろという・・・週に一便あるトラックで一日揺られ、そこから山を数時間登るという桃源郷。 紅海の港町から十日間、千数百キロを越えてきたことを思えば目と鼻の先だが、この先は地図もない。 あるのはホテルのオヤジの話だけ。 ここまで来た以上オヤジの話に乗るしかないのだろうが、週に一便のトラックは昨日出たということで六日間の灼熱ホテル滞在となった。 アッラーホ・アクバル!
当日、トラックはオヤジの言うように確かにあった。 トラックは週に一度の青空市に合わせて前日の夜に目的地に着き、朝を待つらしい。 そしてそのトラックはなんとダブルデッカー。 下の荷台には豚とヤギと鶏のスペースとなり、上の荷台には荷物と人間が一緒に積まれるという特別仕様のトラックだった。
乗客のほとんどが青空市で商売をする荷物を山ほど抱えたオバサン達。 俺は大量の荷物の隙間に潜り込み、足元からのドナドナされる豚とヤギと鶏の声を聞きながらトラックに揺られる。 まあ実際は振られるというよりも、山道の悪路を登るトラックの荷台で上下左右に激しく揺さぶられる丸一日の行程なのだが。 そして山を登るほどに、空が暗くなるほどに気温も下がる。
闇の中、どこかに着いた。 電気などないジャベルマーラ、当然のように全てが闇に沈んでいる。 辛うじて星明かりに浮かぶ遠くの影が多少の生活感を感じさせるが、ここがどんな所なのか想像も付かないことに変わりはない。 そして冷える。 朝に出発した灼熱のエルファシャを思うとアラスカにいるような、そんな寒さ。 乗客のオバサン達はそんな寒さも当然のように、思い思いに荷物を下ろし寝支度を始めた。 トラックの運転手も俺に適当な場所で寝て朝を待てと言う。
爆睡!
シュラフの中から覗く日の出前の空はすでに青く、顔に感じる風は爽やかにして冷たい。 砂漠の朝に感じる隠された狂気の影はなく、草木の瑞々しさを秘めた新緑の風だ。 そして遠くからは鳥のさえずりさえ聞こえてくる。 寝ていたのは集落から少し離れた広場だった。 この場所で青空市が開かれるのだろう、オバサン達が荷を解き品物を並べている。 片隅の焚き火ではすでにチャイ屋が湯気を上げ、何人かの男達が焚き火を囲んでチャイを啜っていた。
チャイ屋でチャイとエイシの朝食を取り、いよいよ桃源郷への最後の山登りとなる。 焚き火で一緒にチャイを啜った男達によれば、二時間ほど歩いた距離にある ”スーニィ” と呼ばれる集落が目指す桃源郷らしい。 千数百キロを二週間以上かけた桃源郷探しも十キロ程数時間を残すだけとなったが、そんなことよりも砂漠以外の世界がこの世に存在していたことに感慨深い。 しかも砂漠の灼熱から森林浴の世界に一夜で移動していたとは異世界転移に近い衝撃だ・・・いや、あるいは異世界転生をしてしまったのか。
二時間ほどと言われたスーニィだったが遠かった。 週に一度の青空市に降りて来るのだろう、すれ違うオバサン達に挨拶がわりに道を尋ねるが返ってくる返事は、すぐそこよ。 三時間前も、二時間前も、一時間前も同じ返事が返って来るので道は間違っていないのだろうがすでに四時間は過ぎている。 まあそれもアフリカの日常と爽やかな風とともに怠惰なトレッキングを楽しむこと五時間、集落が見えてきた。
スーニィだった。
驚いたことにスーニィには稀にやって来る旅行者向けに、スアキンの廃墟で泊まっていた官営の宿泊所と同じ施設があった。 同じように電気も水道もないがベットがあり、綺麗に掃除された無料の宿はスーダンのホスピタリティなのだろう。 そう、砂漠の桃源郷スーニィは拓かれた秘境でもあった。
ここスーニィはまさに、砂漠のレストランの壁に描かれているような桃源郷だった。 宿泊所横のクリークには清らかな水が流れ、青く茂った草木が両岸を覆っている。 木々に囲まれた宿泊所の庭にはグァバフルーツやパパイヤが実り、新緑の裏山からの心地良い風の流れに鳥のさえずりが重なる。 こんなにも素晴らし桃源郷だが、しかしひとつだけ問題があった。
メシ屋がない。 まあ桃源郷にメシ屋は似合わないとしても、桃源郷にあるべきはずの茶屋すらない。 早い話がメシは自炊するしかない。 米はいつでも持ち歩いているが、桃源郷で米と庭の青いパパイヤだけの食事というのは余りに寂しい。 素晴らしい桃源郷だけに余計に悲しい。 だがアッラーは俺を見捨てなかった・・・集落に雑貨屋があるという。
集落の隅に一軒の雑貨屋、雑貨屋というよりも民家の庭に少しばかりの品物を並べた小屋が立っていた。 並んでいるのは米、豆、紅茶、砂糖、塩そしてローリーポップ。 サーディンの缶詰さえ置いていなかった。 余りに落胆する俺の姿を見たオヤジが庭で能天気に走り回っているニワトリを指差し、あれはどうかと言ってきた。 そう、俺は雑貨屋からの帰り道に二羽の生きたニワトリが入ったカゴを抱えていた。
スーダンの最高峰ジャベルマーラにあるという桃源郷での桃三昧を夢想しながら千数百キロの砂漠を越えてきた俺だったが、ニワトリを自分で絞めて夕食にするというサバイバルな桃源郷の生活となってしまったーーーしかしまあ、だからこそ俺は冒険旅行という遊びを止められない。 そして今思えば、”コケコッコ〜” と鳴きながら雑貨屋の庭を走っていたのは確かに桃だったような気もする桃源郷のスーニィだった。