フローレス、そしてティカル遺跡

 強権的独裁という形で軍のガテマラ支配が続いていた1980年代。 その頃のティカル遺跡は訪れる観光客も少なく、また長期の内戦で遺跡は過度に整備修復などをされることもなかった。 その為かティカルはジャングルの奥深くに隠された秘境の響きを残していた。 そんなティカル遺跡だからこそ行ってみようと、ガテマラ・シティから長距離バスに乗る。 

 長距離バスで向かう先、そこは ”湖に沈みゆく町” フローレス。 当時のフローレスはペテン・イツァ湖の増水でそう呼ばれ、いかにも秘境探訪の拠点らしい。 しかし20万人近くの死者、行方不明者を記録する軍によるゲリラ掃討作戦の真っ最中、バスの中で寝ているだけではフローレスには着かない。 道路上に作れらたいくつもの軍、もしくは民兵のチェックポイントでは何度もバスから降ろされ徹底的な身体検査と荷物検査が行われる。 いきなり手榴弾が爆発することもあるとかで、検問する側が恐怖していることに恐怖する・・・恐怖から偶発的に銃の引き金を引きかねない、そんな世界。 恐怖に近い緊張感、それは秘境探訪の強烈な香辛料として麻痺するしかない現実世界。

 フローレス、その町は確かに沈みかけていた。 泊まった湖際のホテルの一階フロアーは湖面の50センチ下、プランク板を渡って二階への階段にたどり着く。 柱の陰には大きな魚が見え隠れし、ホテルのロビー内で大物釣りが楽しめそうな異世界ワールドになっていた。 しかしそんな異世界ワールドも凄惨な内戦の影響からは逃げられず、街に人影を見ることもなく現実世界に引き戻される。

 フローレスからティカル遺跡へは地元の乗客が数人乗り合わせたローカルバスでジャングルを抜ける山沿いのダートを走る。 すれ違う車といえば時折見かける軍用車両、その度に車内にはある種の緊張感が広がる。 旅行者の間でも政府軍の噂は色々と語られ、ガテマラ旅行の注意事項として上がっていた。

 60年代から内戦の過酷な環境に囲まれているからこそ余計に現世から隔離された神の居住地ティカル遺跡、それ故のジャングルに隠されたニュートラルゾーン。 それはジャングルに同化する巨大な組み石、あるいはピラミッド。 それは時間という不可侵領域に支配され形作られた造形美。 そしてそれは地球という生命体の生命活動、しかしそれは偶然でもなければ突然変異でもない生命活動の必然による具象体・・・それ故の神聖なる造形美、真理の具現化としての存在。

 マヤの人々が夜空を仰ぎ見、その深淵に畏怖した時間という神の領域を垣間見る私の幸運に共鳴するかのようにジャングルを吹き抜ける風が鳴る。 それは大地の息遣い、あるいはその旋律とリズムが織りなす抒情詩。 それは時間の澱みに漂う泡沫、あるいは時間の隙間に現れた蜃気楼。 私は巨大な円形劇場の真ん中に、そして見上げる観客席で繰り広げられる市井の人々の幾千、幾万もの物語に圧倒され一人立ち尽くす。 そこに存在するのは、時間。 時間という海原、その蒼い大海に漂う物語が大波のごとく押し寄せ、私という存在を飲み込んでいくーーーそれはあたかも漆黒の海で纏わり付く夜光虫がその燐光で私を分解していくように。

 「戻ろう」

 気が付けばジャングルの騒つきは止まり、巨木の根に絡め取られてピラミッドは沈黙に包まれていた。 私はどのくらいの時間この場所に立っていたのだろう。 五分程なのか、あるいは一時間にもなるのだろうか・・・

 ティカルのキャンプサイトに戻った時はすでに夕方だった。 気温も落ち着きハンモックに揺られ、私は発熱していることに気が付いた。 昼間は気温と湿度が高く発熱に気付かなかったが、おそらくはアフリカで私の体に住み着いたマラリアの発熱だろう。 そしてその高熱で茹った脳味噌が私に見せてくれたのはティカルに流れた二千年以上の時間の存在だったのかもしれない。

 

 

 

 

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