そこはエーゲ海、ローカルな小さな島。 私は観光客の集まる港を避け、島の奥にある集落に部屋を借りていました。 その集落にある、一軒のパン屋。 ギリシャの朝は早く、六時前にはすでに開いています。
毎朝、私はそのパン屋に通っていたのですが、店には綺麗な英語を話す美しい女性が働いていました。 そして私が、この集落では珍しい外国人の滞在客であることもあり、いつしか道端でも親しみをもって挨拶を交わすようになりました。
ある日の昼下がり、たまたま港のカフェで会った彼女は、なぜパン屋で働いているかを話てくれました。
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十年ほど前、ごく普通にニューヨークの学生生活を楽しんでいた、ごく普通の女子学生だった彼女。 唐突にサマーホリデーを冒険旅行にすることを思い付いたとか。 とりあえずロンドン行きの格安チケットと、一冊の旅行者ガイドブックを買い、アパートの階段を駆け下りたのがすべての始まりだったそうです。
誰もが英語を話し、ニューヨークとあまり変わらない大都会ロンドン。 バッキンガムパレスには目もくれず、すぐに飛び乗ったのが二泊三日のギリシャ行きの長距離バス。
しかし着いたギリシャ、アテネも英語が通じる大都会。 冒険旅行に憧れていた彼女は、パルテノンも素通りで地下鉄の切符を買い、港ピレウスに。 そしてクノッソスの迷宮ならば冒険旅行ができるだろうと、クレタ島へのフェリーチケットを手にしました。
クノッソス、今は観光客で溢れる遺跡。 観光客の笑い声と強烈な日差しで、迷宮へのロマンの影さえも消されている。 ならばと彼女は、ガイドブックが勧めていたクレタ島の南側を目指しました。
オリーブと羊と断崖、そして碧い海ーーー崖の縁に立つ彼女の髪を揺するアフリカからの乾いた風に、やっと探していた冒険旅行の香りを感じたとか。
そんなクレタの南側を楽しんでいた彼女。 ある日、地元のギリシャ人に教えられた無人のモナストリーを訪ねることに。 そこは崖を二時間以上かけて降るか、漁師に頼んで船で行くしかない、とても美しい海辺の小さな白いモナストリー。 そしてモナストリーの横には、訪ねてくる僅かな旅行者のための、白く塗られた小さなカフェ。
そのカフェで出されていたのが、その日に焼かれたとても美味しいパン、そしてオリーブ、フェタチーズにトマト、もちろんカフェ、エルニコ。 彼女は恋に落ち、そのカフェで残りの夏を過ごすことに。 もちろん次の夏も、そのカフェで暮らしました。
彼女が恋に落ちた相手、小さなカフェの店主の叔父さんがこの集落のパン屋だったのです。 その叔父さんが引退するということで、小さい頃から手伝っていた彼が、このパン屋を継ぐことに。 そして彼女はこの小さな島で、パン屋になることに迷いはなかった。
最後に、彼女は私に言いましたーーーこの島で彼と一緒にパン屋を始めてからが彼女の楽しい、楽しい冒険旅行の本当の始まりだったと。 その時の彼女の目は生き生きと輝き、全身で生きている今を楽しんでいるようでした。
きっと彼女は、今も続いている素晴らしい冒険旅行を誰かに自慢したくて、私に話してくれたのかもしてない・・・そんな気がした。