カフェに腰を下ろし遠くを眺める、そこには小さな島を囲む青すぎる海。 夏も終わりに近づき観光客がまばらになる頃、その海はその青さを増す。 それは海の向こう、砂漠からの熱い風が近づいていることを知らせる青さ。 私が去年、偶然にも出会うことのできたその熱い風を思い出していた。
その日の朝、ホテルの傍らに広がるオリーブ畑は日の出前から奇妙なざわつきに満ちていた。 そのせいなのか薄明かりの中で目を覚まし、再び眠りに落ちることを諦めた私はベッドから海辺の散歩へと出た。
爽やかな朝の空気、日中の乾いた熱気など想像もできない微かな湿り気を含んだ心地良さがオリーブの樹々を彩る。 そして海辺へと降りる小道は穏やかなカーブを描き、細かな砂利を踏む音がオリーブの樹々のざわつきを際立たせる。 見上げれば、そこには青さを取り戻しつつある空、その空は海へと繋がる。
奇妙な浮遊感、私は思わず立ち止まったーーー外界から隔離された、あたかもガラス瓶に閉じ込められたような感覚が私を襲う。 全ての音は消え、そして私は川の流れに漂うかのように小道を海辺へと降って行く。 未だに日の出前、しかし空はすでに青く輝き、光に満ちていた。
青、それ以外に何も持たない空と海。 そして回り込んだ海岸線の向こうには石灰岩と僅かばかりの灌木の丘、その頂きには白く塗られた小さな教会。 それは何時もと同じ風景、しかし何時もとは何かが違う・・・あたかも時間の揺らぎが景色に重なっているかような、時間と空間の狭間から覗き見るような。 それは露天の骨董市で古靴と一緒に置かれた古いポストカードのくすんだ写真に感じる、そんな世界と一緒にガラス瓶に閉じ込められたような・・・
それは何処か懐かしい、記憶の風景。 私が昔に住んでいた家に飾られていた、私が住む以前から飾られていた一枚の絵。
そして・・・、風の音。
音の消えた世界に今、微かに響くのは風の音。 遥か彼方、南の水平線からの風。 それは空と海とが繋がる場所からこの島の海岸まで続く一本の道、そして道の遥か遠くには何かの影が。 それは風の道を静かに揺れながら進む人と動物の姿にも見える。
青い影、もしくは蜃気楼。
次第にその存在感を増す、青い影。 それが駱駝を連れたキャラバンだと分かるまでにそれ程の時間を必要とはしなかった。 彼らはゆっくりと、しかし確かな足取りで青い道を進んで来る、この島を目指して。
南から青い海を越えてきたキャラバン、彼らはその穏やかな歩みを変えることなく私の目の前へと、砂浜へと足を踏み入れた。 彼らは私の存在を気にかけることもなく、遥か遠くを見つめ静かに歩みを進める。
それは風。 それは、南からの熱い風。
私の横を通り過ぎるキャラバン、彼らの砂を踏みしめる足取りに音はなくただ風の音だけが耳に残る。 そして彼らが刻んだ足跡を打ち寄せる波と風が消し去る。
何かを確かめるように彼らの一人が私の心を覗き込み、不意に指を軽く触れた。 それは水面に落とされた一滴のインク、そしてそれは私の意識に深く沈み込み模様を描き出すーーーそれは物語。 蜃気楼の先へと消えていったキャラバンの物語。 黄金の都、あるいは桃源郷を目指し蜃気楼を追いかけ砂漠を彷徨った人々、彼らが尽きることのない砂漠の砂に刻んだ夢物語。 それは数千年前から語る継がれる朽ちることのない砂漠の真実、それは砂漠の熱い風。