とても良心的なガソリンスタンド

 バイクを買った。 バイク旅行をしたいというよりも乗り回して遊ぶために買ったヤマハのオフロードバイク。 多少の着替えをバイクに縛り付け、港ピレウスからクレタ島行きのフリーに乗せる。 クレタ島は幅60キロほどだが東西には260キロしかも二千メートルを越える山もある。 そこには山あり谷あり崖ありビーチがあり、しかも春から秋まで雨がまったく降らないというバイクで走り回るには最高の場所。 観光客がほとんど訪れないクレタの南側、小さな集落の簡素な宿を拠点にバイク三昧と決め込んだが・・・翌朝、タイヤがパンクしていた。 そしてパンクの修理道具を持っていないことに気が付いた。

 ここはギリシャ、クレタ島。 砂漠で砂に埋もれたわけでもサバンナで象に踏まれたわけでもない、ただのパンク。 先ずは宿で遅めの朝食を取りながら宿のオヤジにパンク修理が出来そうな場所を聞いてみる。 俺の片言のギリシャ語と身振り手振りに、オヤジが片言の英語を交えたギリシャ語で返してくる。 どうやら集落に小さなガソリンスタンドがあり、そこで何とかなりそうだ。

 集落の外れには白い漆喰が塗られた崩れかけの小屋、そして給油機が立っている。 横には大きなオリーブの木、その木陰にテーブルと椅子が置かれ太ったオヤジが眠そうに座っていた。 バイクを押しながら現れた俺を面倒事と思ったのだろう、不機嫌そうな顔を見せる。 ギリシャ語しか話さないオヤジだが、パンクしたタイヤを指差せば話は通じるが・・・ オヤジは不機嫌そうな顔のまま工具を持ってきて、俺の前に並べた。 そしてオヤジはオリーブの木陰の椅子に戻り、俺と工具を交互に指さす。 どうやら工具を貸してやるから自分で直せと言っているようだ。

 すんなりと事が進むと思ってはいなかったが、スタンドまで来て自分で直すとは流石はギリシャ、クレタ島。 しかも使う工具は車載工具とあまり変わらぬ間に合せの物。 数ヶ月前に衝動的に買った初めてのバイク、もちろんバイク修理などしたことはないがパンクなら自転車とあまり変わらないだろいうと工具を手に取る。 相手はギリシャ人、修理を頼もうものなら追い返されるのがオチと分かっている・・・で、とりあえずはパンクしたリヤタイヤを外すことから始める。

 ガキの頃に自転車のパンク修理を数回経験した程度の超ド素人の俺の手際は当然酷い。 見かねたオヤジの指示がオリーブの木陰から飛んで来る。 もちろんギリシャ語だが俺の手には工具、目の前にはバイクがあるのでオヤジの言っていることは何となく分かる。

 悪手禁じ手四苦八苦、二時間余りを要してオヤジの ”ブラボー” の声で修理の終わりを知る。 そして請求された修理代が、パンクの穴に貼り付けたゴムパッチの数十円だけだった。

 バイクに跨り、俺はキック一発エンジンスタート。 宿に戻ろうとする俺にオヤジがオリーブ木陰から手招きをする。 ここは紀元前七千年から人々が暮らすクレタ島、そんなに急いでも歴史は変わぬと言いたげに空いた椅子を指差した。 そう言われて立ち去るようでは礼儀知らずのただの無教養異邦人。 俺はバイクのエンジンを止め、オリーブの木陰の椅子に腰を下ろした。

 オヤジは満面の笑みを浮かべると小屋から皿を持ち出しテーブルに並べ始めた。 オリーブにフェタチーズ、冷やしトマトにヨーグルトサラダにパン。 そしてグラスが置かれギリシャの地酒ワイン、レッチーナのデカンタまでもが並んだ。 さあ食べろとフォークが渡され、さあ飲めとレッチーナがなみなみと注がれたグラスをも勧めてくる・・・クノッソス九千年の時間を受け継ぐオヤジは些細な事など気に留めない。 だが俺は異邦人、笑顔と身振りで丁重に辞退しようとするが九千年の歴史に俺如きが立ち向かえるはずもない。 ガソリンスタンドにパンク修理に来たのか酒を飲みに来たのか、俺は二時間ほど飲み食いしそろそろシエスタの時間。 蛇行しながら走る俺の背中を、”ブラボー” と叫ぶオヤジの声が追いかけてくるクレタ島ツーリングの二日目だった。

 

 

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA