ボンベイコーリング

 インドのムンバイがまだボンベイと呼ばれていた1980年の話だが、この街には多くのジャンキーが座礁していた。 理由は単純明快だ。 安くしかも簡単にホワイトシュガー、ブラウンシュガーを手にいれることが出来たからだ。

 ジャンキー達が集まる街のチャイ屋で聞こえてくるのは、どこで買うのが安いのクオリティーはどこのが上だのそんな話ばかり。 安宿に戻れば女の子が相部屋の隅でスプーンをライターで炙りインド人の泊まり客を困惑させている。 そして深夜の路上では潰れたジャンキーからインド人が金目なものを物色していたり。 そんなボンベイの公園で屋台の砂糖きびジュース売りから貰った水でブラウンシュガーを炙りテイクオフする生活から抜け出すには・・・

 「インドを出ようと思ってる」

 「マジか、トコマ」

 「ああ、俺は旅行者だぜ」

 「どう見てもジャンキーにしか見えないけど」

 「あえて言えば、俺はジャンキーという旅をしているのさ、このボンベイで。 だがこれ以上この旅を続ければ俺はマジのジャンキーになっちまう。 で、この旅を終わらせるにはインドを離れるのが一番だろう、そう思わないかレオン?」

 「チケットは買ったのか?」

 「ああ、来週のフライトでカラチに飛ぶ。 そして陸路でイラン、トルコを抜けてギリシャに向かう」

 「寂しくなるな、トコマ」

 「レオン、あんたもそろそろボンベイを離れた方が良いんじゃないか」

 「ああ、分かってる・・・」

 レオンとそんな会話をした三日後、イランとイラクが戦争を始めた。 そしてイランはパキスタンとの国境を閉じた。 

 俺のボンベイ脱出計画は初っぱなからトラブルにぶち当たったと思ったが、これは俺の決意を祝っての神様からのプレゼントだと考えることにした。 クリーンではない体でのパキスタンからギリシャへの陸路五千キロが避けられた。 そしてもしイラン通過中に戦争が始まっていたならイランから出られなくなっていたり、最悪俺の乗ったバスにイラクからのミサイルが命中したかもしれない。 俺は神様に感謝しながらチケット屋に向かいカラチ行きのチケットをキャンセルし、アテネ行きを予約する。 そして次の日にチケットを取りに行きと・・・

 「悪いが、チケットの値段が上がった」

 「まじかよ、昨日の今日で値上げかよ」

 「戦争が始まったんだから仕方がない。 今日ならこの値段だが、明日は知らん。 どうする?」

 喧嘩する気力もない。

 そう、俺はラッキー。 神様がついている。 金を払ってポーリッシュエアーのチケットを受け取る・・・これでボンベイからマジ本物のテイクオフが出来るだろう。

 そして三日後、神様のご加護を受けた俺は真夏のボンベイからまだ雪の残るワルシャワに飛んだ。 三ヶ月間の真夏のインド滞在で寒さに対する想像力を完全に失っていた俺は Tシャツ姿。 暖房のほとんど効いていないトランジットルームで滑走路に残された雪を眺めながらの六時間、寒さに凍えアテネ行きのフライトを待ちながら思うのは、”SHIT!”

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