走れグレイラビット

 君は聞いたことがあるだろうかグレイラビットの話を。 グレイラビット、巷ではグレイハウンドのパチもんとも言われていたが、ヒッピー達にはマジックバスとも呼ばれた半プライベートのしかし紛れもなくその存在感を誇示していた国際公共交通機関だ。 例えばロンドンからカシミール、カトマンズへの超長距離路線(国際情勢や乗客の個人的トラブルを考慮しての到着日未定)から二泊三日のアムステルダム、アテネ間ノンストップ鈍行短距離運行まで小規模または個人営業による柔軟さと多様性をも持つことで路線とそのバリエーションは充実していた。 だが超格安料金による憧れの桃源郷への切符ということで当然のように不確定要素の塊であることは間違いなかった。 とは言っても、ご存知のとおり世界は何時でも何処でも刺身以上のなま物。 例えば私が陸路インドからギリシャへと行こうとした時には出発の三日前にイランとイラクとの戦争が始まりパキスタン、イラン国境が閉鎖されやむなく飛行機を使ったり、コンゴとルワンダとの国境では数十キロのトランジットに法外な料金を要求されせっかくヒッチハイクした車を降り徒歩での山越を選んだり、コペンハーゲン空港では数週間前の日本赤軍が関わった爆弾事件との関係を疑われワルシャワ空港に送り返されたりとーーー国境というものを越えるとはトラブルに対する自身の決断とその結果を覚悟しなければならない世界線。 しかしまあそれでもグレイラビットはヒッチハイクよりもはるかに早く、現地のローカル路線を乗り継ぐよりも確実に安く超絶的に楽だ。 そしてもし君がグレイラビットの安全性を問うならば、インド、アフリカの鉄道旅の屋根席よりは安全だろうと私の経験が答える。

 もし君のポケットに小銭があれば、それで十分。 夢、もしそんなものがあればブタにでも食わしてしまえ。 何かを考える必要なんてないのさ。 耳を澄まして目を見開いて、そして深呼吸してみなよ。 咳き込むような排気音を立てながら懐かしい匂いの排ガスを撒き散らし走るおんぼろバスが見えるだろう。 

 必要なのはあと先なんか考えない勇気。 目的地、そんなものはただの約束手形。 明日が分からないから明日が楽しみ。 未来が見えないから未来にワクワクするのが止まらない。 だから夜明け前の暗闇を心穏やかに突き走り、朝焼けの兆しに心を躍らせられる。 それがグレイラビット、だからマジックバス。

 君もグレイラビットに乗ってみようと思うかな。 片道切符、今いる場所は帰る場所なんかじゃないのさ。 ぼんやりと昨日を眺めているから帰る場所が気になるだけ。 でも昨日はすでに昔、どうすることも出来ない大昔。 そしてもしグレイラビットが見えたなら、それは冒険旅行という今日の始まりなのさ。

 感じられるかグレイラビット、君には見えるかグレイラビット、あのおんぼろバスがーーー住み慣れた街の雑踏の向こうに、見飽きた電車のデジタル広告の合間に、空虚なテレビコマーシャルの裏側に。 さあ、ポケットの小銭をぶちまけろ。 さあ、明日の天気なんか気にするな。 さあ、昨日のことなどゴミ箱に捨てようぜ。 きっと君にも見えるはず、大騒ぎしながら闇夜を駆け抜けるおんぼろバスが。 真っ黒な排気ガスを撒き散らし一直線に崖の向こうへと飛び出す狂気のバスを。 昨日と明日の隙間に見える桃源郷への片道切符、グレイラビットからの贈り物。

 

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