旅っぱなし

 「迷ってる」

 列車の時間待ちで入った駅のカフェ。 睡眠不足の気怠さを引きずりながら、混み合った店内に席を探す。 俺の目に止まったのは、男が一人座るボックス席。 その男には、ある種の雰囲気があった。 例えば夏の終わりのエーゲ海、港のカフェ、一人フェリーを見送っているような。 例えば夕暮れのイスタンブール、一瞬にして雑踏から雑踏へとすり抜けて行くような。 北ヨーロッパの地方都市では明らかに異物とも思えるような、そんな男。

 俺は男に軽く挨拶をし、そのボックス席に腰を下ろした。

 男は時間を持て余していたのだろう、座った俺にスコテッシュ訛りの強い英語で話しかけてきた。 お互いに旅の面白話を三十分ほど披露した後、俺は尋ねたーーースコットランドには帰るのかと。

 「決めたつもりだったが・・・」

 ここは駅のカフェ。 多種多様な人間の交差点ーーー難民に亡命者、逃亡者に流れ者、ジャンキーにプッシャー、これまでも色々な事情で故郷に帰れない、帰られない人間に会ってきた。 このスコテッシュが何を背負っているかは知らないが、俺にしたって十年近く日本に帰っていない。

 「そして、後悔しているとか?」

 男はカフェの大きな壁掛け時計を見つめ、大きくため息。 そして小さく笑った。

 俺は話のつなぎとして聞いたのだが、どうやらヤツのクソ溜に手を突っ込んだようだ。

 「で、アンタは?」

 「俺か? 俺は諦めた」

 「諦めた?」

 「ああ、俺の帰る先はインドを越えて、エキゾティックな東南アジアのさらに向こう、正真正銘東の果てだ。 海賊だってスシが食いたいだけで、海の果てまでは行かないぜ」

 「スシが食いたくて海の果てまで行く必要はないだろうが、しかし・・・、それだけが理由なのか?」

 「理由ねえ・・・、俺は気付いたのさ。 これが俺の生き様なんだってさ」

 「”旅っぱなし” てやつか。 でもそれで、寂しくはないのか?」

 「なあ、孤独で寂しいのが、旅だろうが」

 「分かってる。 だからこそ・・・」

 ヤツが時計を気にしている理由がわかったようなーーーここで誰かを待っているのだろう。 あおそらく、女。 俺も同じような経験がある。 それはウエールズの田舎、ロンドン行きの高速バスのチケットを見つめながら、朝別れを言ったばかりの女を待った。

 「で、後悔しないかと、迷ってるわけか」

 「・・・」

 「俺に言わせりゃ、どっちを選んでも後悔する。 いくら悩んでも、結局は後悔する。 違うか?」

 「しかし・・・」

 「後悔しない選択があるとでも思ってるのか。 そんなもん、ありゃしねえ。 今悩んでいるのは、後悔した時のための、ただの言い訳さ・・・あれだけ悩んだから、俺は間違ってねえってさ」

 「ああ、確かにそうだが・・・」

 「どうせ後悔するんだ、どっちを選んでも・・・そう、思わないか? だから後悔して、それを背負え。 もし背負う自信がないなら、俺は東の果てでフジヤマを眺めて暮らすよ」

 どうやら俺の推測は当たっていたようだ。 椅子に沈んでいたヤツは腰を浮かせ、体を乗り出してきた。

 「そうかもな」

 「そうさ、だから俺は考える前に決めて、決めたら考えない。 まあ、後々それを後悔して、メチャクチャ悩むけどな。 まあ、それが人生だ」

 「で、どうやって、右か左かを決めてる?」

 「何だっていいさ。 コインでも直感でも好き嫌いでも、何でもいい。 重要なのは、決断を全部自分で背負うってことさ・・・それが、旅になる」

 「自分で背負うことで、旅か・・・」

 「ああ、そうだ。 言い訳せずに、全部背負って歩く・・・それが、旅だ。 初めは結構な重さでキツイが、心配するな。 そのうちに足腰が鍛えられ、慣れるさ。 でもまあ、歩き続ければ当然、背負わなきゃならない後悔もまた増える。 その繰り返しさ」

 「・・・かもな」

 「背負う覚悟だけ決めろ。 決めたら目をつぶってでも、歩き出せ。 それが出来ないなら、スコットランドに帰って羊の顔でも眺めて暮らせ」

 俺の言葉に何かを感じたのか、ヤツは天井を見つめ黙った。 女の最後の言葉を思い返しているのか、あるいは、その女と初めて会った時のことを思い出そうとしているのか。

 「分かった、俺はスコットランドに帰る」

 「えっ!」

 「スコットランドに帰るが、羊の顔を長めにじゃない。 帰って、倒れた親父の雑貨屋を継ぐ。 そのために帰る」

 「はあぁ・・・」

 「俺はここで、一時間毎に出る列車に怯えながら、迷っていた。 だが今、アンタの言葉で分かったよ。 本当は俺が、何に怯えていたのかが」

 どうやら俺は勘違いしていたようだ。 ヤツが別れた女を待っていたのでなく、故郷に帰ろうかどうかを迷っていたとは。 まあ、俺の勘違いには気付いていないようだし、俺の話で心が決まったのなら、それはそれで良しーーーここは黙って話に乗ろう。

 「親父が倒れたことを知って、俺はスコットランドに帰ることにした。 だが駅で列車を見た時、突然恐怖に襲われた。 例えば・・・、列車の脱線事故、高速バスの衝突、フェリーの沈没・・・限りなく湧き上がる死のイメージ。 俺はマジに焦った。 ほとんどパラノイヤ状態だった。 少しでも気分を落ち着かせようと思って、アンタと話し始めたんだが・・・、それが何だったのかが、分かった。 それは、俺の旅が終わることへの恐怖だったんだ。 故郷に帰る、それは俺の旅の終わりかと思っていた。 旅、それは俺のすべてだ。 旅を止めるということは、俺にとって死を意味していた。 だから、ここから列車に乗り、スコットランドを目指すということは、俺が俺自身に死を宣告することだと思っていた。 しかし今、その考えが間違っていたことに気付いた。 列車に乗ることで、俺の古い旅が終わる。 それは古い俺自身の死であり、だからこそ始まる、俺の新しい旅・・・死、それは新し旅へのファーストステップだと。 故郷で雑貨屋になろうが、俺の旅は終わらない。 雑貨屋になるという決断を自分自身で背負い、背負うことで俺の新しい旅が始まる。 今の俺は、なんの恐怖も感じない・・・感じるのは、新しい旅が始まることへの興奮だ」

 「ああ、そいつは素晴らしい」

 「ありがとう。 是非、俺にビールを奢らせてくれ」

 これは久しぶりの幸運。 小さな勘違いがいっぱいのビールへと。 最近トラブル続きの俺としては、この一杯のビールが悪い流れを変えてくれることを願うーーーマジにそうなって欲しい。 俺がこの駅のカフェにいるのも、一緒に住んでいるリタとの昨夜の喧嘩が始まりだ。 喧嘩の始まりは、いつものように思い出せないほどの、些細な事だ。 しかし生活に忙しく、旅らしい旅をしていなかった俺の欲求不満が爆発。 今朝俺は、寝ていたリタにギリシャ行きを宣言、そのままアパートを飛び出した。 もっとも真実は、熟睡しているところを叩き起こされたリタは激怒、アパートから俺を追い出した。

 「で、次の列車に?」

 「ああ、ブリュッセルまで行って、ロンドン行きのバスを捕まえる。 で、アンタは?」

 「俺か? 俺は・・・、ケルンでアテネ行きのバスを・・・」

 俺は、迷っていた。 エーゲ海の強烈な日差しが、背負った後悔を背中に焼き付ける日々を思うほどに、なぜかリタの細身の太腿が、あのしなやかな脚が俺の意識を占拠する。 そして彼女は、俺を追って来るような女でもない。 来月には多分、新しい男と暮らしているだろう。 

 「トコマ、お互いの新しい旅に、乾杯だ」

 「アンタはスコットランドで、そして俺はギリシャでの・・・」

 新しい旅ーーー果たして本当にそうだろうか? ウエールズで背負った後悔を、あの時と同じ後悔を再び背負うような・・・このままギリシャに向かえば、古い旅の繰り返しのような気がする。 しかもリタを、愛するリタを、俺は永遠に失ってしまう。

 今の俺にとって、新しい旅とは? 愛するリタを失わないために、同じ後悔を背負わないために、今、俺が向かうべき場所とはーーー今更の心変わりだが、リタのアパートに戻ること・・・これが俺の生き様だ。 それに土下座して謝れば、おそらくグーパンチを一発喰らうだろうが、許してくれるのがリタだ。 そして今、駅から引き返した後悔を背負って、俺の新しい旅が始まる。

 「エド、俺のギリシャ行きは中止だ」

 「えっ、どうしたんだ?」

 「詳しく説明している暇はないが、アンタに会えたことで、俺の新しい旅が見つかったことは確かだ。 エド、旅っぱなしだ!」

 俺は叫び、親指を築き上げた。 そしてビールを飲み干し、駅のカフェを後にした。 

      そう、旅っぱなし

      帰る場所を失くして、旅っぱなし

      帰る場所を捜して、旅っぱなし

 

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