愛しのアエロフロート

 それは大昔、LCCなどほとんど無かった時代に我ら旅行者にとても愛された航空会社があった。 それは何時でも破壊的に安いチケットを売っていたエジプトエアー、バングラデシュエアー、ポーランドエアー、そしてアエロフロートだった。 しかも彼らの飛行機に乗るだけでも、ある意味俺達の冒険心を掻き立てるものがあったーーー長時間待たされたり荷物が行方不明になるのは当たり前、時にはスチワーデスとデートをしたり、女の子はコックピットに招待されたり、退屈すればエンジンから火を吹く特別パホーマンスまで披露してくれる。 某航空会社にいたってはエコノミークラスに座席はなく絨毯敷き、雑魚寝スタイルとの噂が囁かれたほどに超クールな航空会社だった。

 そして今回は、そんな愛すべき航空会社の中でアテネ東京を最短距離で結ぶアエロフロートを選んだ。 距離が短いということはそれだけ空に浮いている時間が短く、火吹きパホーマンスを体験する可能性が下がる。

 アテネからモスクワに飛びモスクワで東京行きに乗り換えるのだが、アテネを離陸し暫くして機内アナウンスがモスクワ空港には行かないと告げている。

 モスクワに行かずに何処へ? スチワーデスに理由を尋ねるが、聞いたこともない行き先を繰り返すだけ。 さすがはバリバリ官僚共産主義ソビエト連邦の国営アエロフロート、何も教えてくれない。

 着陸した場所は真っ暗闇。 どこか田舎の小さな飛行場なのか、ただの野っ原なのか機内の窓からは灯りがまったく見えない。 そして機内アナウンスは暫く待機の指示だけ。 二十人ほど乗っているロシア人乗客は普段から国営企業の塩対応に慣れているのか落ち着いたものだ。

 三十分後、ロシア語だけのアナウンスがありロシア人乗客だけがどこかに消えた。 残されたのは外国人乗客ばかりが六人、そして機内アナウンスもない。 スチワーデスに聞いても、静かに待てと言うばかり。 何の説明もなく機内に閉じ込められている乗客に不安が広がるのを感じるが、乗客は俺を含めて五人の栄養失調気味の旅行者とやたらと太って思うように動けないおじさんが一人。 しかも三人のスチワーデスはめちゃくちゃデカくて体格が良い。 おそらく逆らえば俺達は容易く彼女らに押し潰されるだろう・・・そんな緊張感が漂うアエロフロートの機内。

 人の気配などまったく感じられない真っ暗闇の飛行場、目も耳もふさがれた軟禁状態の俺達。 時は冷戦真っ只中、モスクワまでのフライト中に世界で何かが起きたのか。 アクション映画ではありそうな設定だが、現実世界では全力で否定したいハプニング。 そんな非現実とも思える状況を否定しきれない奇妙な雰囲気に誰もが無口になる。

 すでに着陸してから二時間が過ぎ、もうすぐ深夜。 そして突然の機内アナウンス・・・初めにロシア語、続いて英語。 俺達は飛行機から降りバスで移動するらしいが、それ以上は何も知らされない。

 黙って指示に従うのがここでのサバイバルと早々に肌で感じている俺たち、外国乗客。

 飛行機から漆黒の闇へとタラップを降りる。 タラップを降りたすぐ横には窓に金網が張られた、いかにも護送車と思われる紺色の中型バス。 腰にピストルを下げた警備員に促されバスに乗り込む外国人、六人。 いっさいの説明はなく、無表情の警備員からロシア語とジェスチャーの指示があるだけ。

 そして警備員と俺達を乗せたバスは闇から闇へと動き出す。

 無骨なエンジン音だけが響く、静かな車内。 金網越しの車窓の景色は闇。 フロントガラスの向こう、ヘッドライトに浮かぶのは真っ黒な森と霧に閉ざされた一本道。 ここはバリバリ官僚秘密主義ソビエト連邦の真っ只中、闇と霧に囲まれた漆黒の森の中ーーー何処へ続くのか、この一本道。 誰も口には出さないが確かに広がる緊張感。

 走ること一時間、闇と霧の向こうに灯りが見えた。

 俺は拍手したい気持ちだったが、バスに同乗している警備員が気になって止めた。 そして先に降りて行ったロシア人乗客の落ち着いて見えた態度の理由が何となく分かった気がした。

 バスが着いたのは真っ昼間以上に人と光の洪水に騒がしいモスクワエ空港。

 すべてはモスクワエアポートが濃霧で全面閉鎖され起きたハプニングだった。 もちろんエアポートは超満員、しかも霧が晴れる見込みもなく空港再開の目処もまったく立っていない。 そう、人と光で溢れ返る空港ターミナルにいながらも状況は相変わらずの闇と霧の中。 そこには外界から完全に隔離された近代的なエアーターミナルで食事クーポンを行列して受け取り、空いた場所を見つけ段ボール広げて寝る生活が。 それはあたかも近未来的サイエンスフィクションの世界に閉じ込められたような奇妙な三日間だった。

 これが時にはスペシャルな冒険旅行の気分をも味あわせてくれる、愛すべき昔のアエロフロートの旅だった。

 

 

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